源為朝上陸之跡碑

為朝上陸碑(小).jpg
 うぬ塔碑(ふぃい)や運天港(うんてぃんんなとぅ)ぬ西(いり)むてぃいぬ森(むい)ぬ中(なあか)んかい在(あ)ん。
 うん如(ぐと)おる碑ぬあれえ、大概(てえげえ)ぬ人(ちゅ)ん達(ちゃあ)や、源為朝が実(じゅん)に琉球(るうちゅう)んかい来(ち)いがさらん分(わ)からんでぃぬ肝(ちむ)んかい、けえないがすらん分からん。
 為朝ぬ琉球んかい来(ち)ゃる事(くと)お中山世譜んでえんかい確(たし)かに在ん。
 やしが、為朝くるぬ面姿(ちらしがた)あ本土(やまとぅ)ぬ史料とぅ真似(まあに)いそおしが、琉球於(をぅ)てぃぬ実面(じゅんぢら)あ、いいくる見(み)いらん。
 本土於てえ、為朝や程丈(ふどぅたき)ん余(あば)らあなてぃ、あんし、行(い)ちゅる先々(さちざ)んじ、暴切(ぼうち)らあなやあに、親(をぅや)なかいん、地(ぢい)んじん、にりらっとおたん。
 やしが琉球んじえ、猫小(まやあぐゎあ)ぬ如(ぐとぅ)し、ゑんださがあたらあ、うんな面姿ん見いらん。
 琉球んかい来、後ぬ話(はなし)や飛(とぅ)でぃ、ただ大里按司(あじ)ぬ女子(ゐなぐんぐゎ)とぅぬ間(ゑえだ)な尊敦(後ぬ舜天王)産(な)ちゃんでぃぬ事(くとぅ)びけんどぅ書(か)かっとおる。如何(ちゃあ)し琉球王なたんでぃぬ行成(いちない)んむさっとぅ、書かってえ居(をぅ)らん。
 いやでぃん、作(つく)い話(ばなし)ぎさん…。
参:運天港伝説=為朝が運を天に任せてたどり着いた港。
牧港伝説=為朝が「妻子(大里按司の娘と子の尊敦)」と別れた港であり、同時に為朝の帰りを待ち(牧)わびた港。
為朝岩=浦添城にあるが、その名称は後年に付けられたとされる。

【語句】
うぬ碑や運天港ぬ西むてぃいぬ森ぬ中んかい在ん=その碑は運転港の西側の丘の上にある
うん如おる碑ぬあれえ、大概ぬ人ん達や、源為朝が=そのような碑があれば、大抵の人は源為朝が
実に琉球んかい来いがさらん分からんでぃぬ肝んかい=本当に来琉したかもしれないという気に
けえないがすらん分からん=なってしまうかもしれない。
為朝ぬ琉球んかい来ゃる事お中山世譜んでえんかい確かに在ん=為朝が来琉したことは確かの中山世譜等にある。
やしが、為朝くるぬ面姿あ本土ぬ史料とぅ真似いそおしが=だが、為朝の「実像」は本土側とそっくりなのに
琉球於てぃぬ実面あ、いいくる見いらん=琉球での姿は、殆ど覗えない
本土於てえ、為朝や程丈ん余らあなてぃ、あんし=本土では為朝は体格も並外れて(2m10cmぐらい)
行ちゅる先々んじ、暴切なあなやあに、親なかいん=赴く先々で、暴れ者であって
地んじん、にりらっとおたん=親にも地元でも煙たがられていた。(ただ、弓矢の達人として評判はあったらしい)
やしが琉球んじえ、猫小ぬ如し、ゑんださがあたらあ=だが琉球では猫のようにおとなしかったのか、
うんな面姿ん見いらん=(琉球資料では)そういう姿は見えない。
琉球んかい来、話や飛でぃ、ただ大里按司ぬ女子とぅぬ=来琉後の話は飛んで、ただ、大里按司の娘との
間なかい尊敦(後ぬ舜天王)産ちゃんでぃぬ事びけんどぅ=間に尊敦(後の舜天王)を産んだとの事しか
書かっとおる=書かれてない。
如何し琉球王なたんでぃぬ行成んむさっとぅ書かってえ居らん=どのように琉球王になっいったのかの経緯が完全に脱落している。
いやでぃん、作い話ぎさん…=いかにも作り話っぽい…。(歴史の素人が考えても)

参:運天港伝説=為朝がに任せてたどり着いた
牧港伝説=為朝が「妻子(大里按司の娘と子の尊敦)」と別れた港であり、同時に為朝の帰りを待ち()わびた
為朝岩=浦添城にあるが、その名称は後年に付けられたとされる。

この記事へのコメント

  • うちなあぐち初心者

    歴史学とぅ信仰や違うあいびらに。
    もっと言いどぅやれえ、察度ぬ母や天女やいびいしが、天女やくぬ世んかい居いびらん。
    14世紀ぬ人ぬ母親が天女んでぃゆしえ、うぬ時代ぬ戸籍意識ぬ稚拙さぬ現れやいびいしが、
    世鑑ぬ序文んかい『くぬ中山王ぬ系図ゆ鑑とぅせえ』んでぃ書かっとおるくとぅ、くりが琉球人ぬ鑑とぅする歴史やい、無下に『作り話やん』んでぃ
    否定する物しえあいびらんでぃ、思とおいびいしが。

    話が変わいびいしが、我ねえ琉球ぬ正史(中山世鑑、蔡鐸中山世譜、蔡温中山世譜)ゆ、うちなあぐちんかい翻訳する作業そおいびいん。
    やしが我ねえ全くうちあぐち話しゅる事ゆうさんくとぅ、比嘉氏が手伝ってくれると、助かるやいびいしが。
    2021年04月01日 10:52