久場埼港(中城村)

久場埼港small.jpg
 久場埼港(くばさちんなとぅ)んでぃる言(い)ちゃる、写真(しゃしん)抜(ぬ)じゃる日(ふぃい、ひい)や船(ふに)ぬ姿(しがた)あ見(み)いらんたん。
 やしが、くまあ戦後(いくさあとぅ)、南洋(なんよう)とぅか本土(やまとぅ)から戻(むどぅ)てぃ来(ち)ゅうる人(ちゅ)ん達(ちゃあ)ゆ乗(ぬ)してぃ来(ち)ゃる軍用船、着(ち)きゆるただ一(てぃい)ちぬ港(んなとぅ)やたん。
 写真ぬ中む(なか)てぃいんかいあしえ、うぬ事(くとぅ)書(か)ちぇえる碑(ふぃい)やん。
 本土(やまとぅ)ぬ舞鶴港風儀(ふうじい)がやたら。
 あがたあ勝連半島(かっちんぬしま)なとおん。
 碑文(ふぃぶん)なかいや此処(くま)んかい、かやあさってぃちゃる沖縄人(うちなあんちゅ)や10万人余(じゅうまにんあま)い。
 船から降(う)りゆしとぅまじゅん、DDT撒(ま)かってぃ、久場埼収容所(しゅうゆうじゅ)とぅコザぬインヌミ収容所(次回ぬ記事にするちむええ)んかい、ちゃあしっちい、連(そ)うらってぃ行(ん)じゃんでぃぬ事(くとぅ)。
 やしが、ちゃっさが片心(かたくくる)許(うる)ちゃるむぬがやら。
 戦前(いくさめえ)、テニアンんかい居(をぅ)たる我(わあ)叔父(うざ)さあ三人(みっちゃい)ぬ骨(ふに)とぅなてぃ、ちけえ隣(どぅいない)ぬ人(ちゅ)ぬくまんかい持(む)ち戻(むどぅ)てぃ来(ち)ゃん。
 世界平和(しけぬひいわ)願(にが)ゆる他(ふか)あ無(ね)えん。

筆:比嘉清。


久場埼港んでぃる言ちゃる、写真抜じゃる日や=久場埼港だといっても、写真を撮った日は、
船ぬ姿あ見いらんたん=船の姿は確認できなかった。
やしが、くまあ戦後、南洋とぅか本土から=だが、ここは戦後、南洋や本土から
戻てぃ来ゅうる人ん達ゆ乗してぃ来ゃる軍用船=引き揚げてくる人々を運ぶ軍用船を
着きゆるただ一ちぬ港やたん=着ける唯一の港(指定港)であった。
写真ぬ中むてぃいんかいあしえうぬ事書ちぇえる碑やん=写真の中ほどはそれを書いた碑である。
本土ぬ舞鶴港風儀がやたら=本土の舞鶴のような港だったのか。
あがたあ勝連半島なとおん=向こう側は勝連半島である。
碑文なかいや此処んかい、かやあさってぃちゃる=碑文によれば、ここに運ばれてきた
沖縄人や10万人余い=10万人を超えるという。
船から降りゆしとぅまじゅん、DDT撒かってぃ=下船すると同時に、DDTを撒かれ、
久場埼収容所とぅコザぬインヌミ収容所んかい=久場埼収容所と沖縄市のインヌミ収容所(註)に
ちゃあしっちい、連うらってぃ行じゃんでぃぬ事=直行させられたとのことである。
やしが、ちゃっさが片心許ちゃるむぬがやら=だが、どれほど、ほっとしたことだろうか。
戦前、テニアンんかい居たる我叔父さあ三人の骨も=戦前、テニアンにいた私の伯父三人の骨も
ちけえ隣ぬ人ぬくまんかい連うてぃ呉ぃたん=近所の人がここに連れてきてくれた。
世界平和願ゆる他あ無えん=世界平和を願うしかない。
註:「インヌミ収容所」について次回記事にする予定。
筆:比嘉清。

この記事へのコメント