くぬグシクお、尚泰久王ぬ六男(るくなん)ぬ安次富(あしとぅ)加那志(かなし)ぬ一時(いっとぅちゃ)、住(し)どおたる所(とぅっくる)やんでぃち碑文(ふぃぶ)ぬんかいや書(か)かっとおん。
やぐとぅ、くまあ「城(しろ)」やあらな、実(じち)え御殿(うどぅん)んどぅやる。
沖縄(うちなあ)んじえ、拝(うが)み所(どぅくる)なとおる所やれえ、いいくる「ぐしく」んでぃ言(ゆ)くとぅ、何(ぬう)ん異風(いふう)なあやあらん。
まんぐらんかいや、うぬ他(ふか)に尚泰久王ぬ二男(じなん)ぬ居(をぅ)たる大川(うっかあ)グシクはじみ、尚泰久王ぬ親父祖(うやふじ)、尚布里とぅ彼(あり)が子孫(くゎんまが)ぬ祀(まち)らっとおる御神屋(うかみやあ)んあい、あいゆかぬ御願所(うかんじゅ)なとおん。
沖縄んじえ、拝み所とぅないねえ、如何(いか)な敵(かたち、てぃち)やらわん、うぬ所(とぅくる)んかい別(びち)ぬ物(むん)、ぎれえたいや、じょうい、さんむんやくとぅ、木(きい)ぬちゃあ生(み)いする他(ふか)あ、いいくる其(うぬ)ぬ儘(まあまあ)、残(ぬく)さっとおん。うん如(ぐとぅう)しどぅ、沖縄人(うちなあんちゅ)お、昔物(んかしむん)守(まむ)とおる。
筆:比嘉清。
くぬグシクお尚泰久王ぬ六男安次富加那志ぬ一時=このグシクは尚泰久王の六男安次富殿が一時、
住どおたる所やんでぃち碑文ぬんかいや書かっとおん=住んでいた所だと碑文に記されている。
やぐとぅ、くまあ「城」やあらな=であるから、ここはいわゆる「城」ではなく、
実え御殿んどぅやる=実際は、御殿(住居)なのである。
沖縄んじえ、拝み所なとおる所やれえ、いいくる=沖縄では、拝所になっている場所は、殆ど、
「ぐしく」んでぃ言くとぅ、何ん異風なあやあらん=「グシク」というので、何ら違和感はない。
まんぐらんかいや、うぬ他に尚泰久王ぬ二男ぬ居たる=付近にはその他に尚泰久王の二男が居た
大川グシクはじみ尚泰久王ぬ親父祖、尚布里とぅ=大川グシクはじめ、尚泰久王の先祖、尚布里と
彼が子孫ぬ祀らっとおる御神屋んあい=彼の子孫が祀られている御神屋もあり、
あいゆかぬ御願所なとおん=(一帯は)ちょっとした聖地となっている。
沖縄んじえ、拝み所とぅないねえ、如何な敵やらわん=沖縄では聖地となれば、どのような敵でも
うぬ所んかい別ぬ物、ぎれえたいや、じょうい=そこにに別の建物を建てたりは、絶対に
さんむんやくとぅ、木ぬちゃあ生いする他あ=しないので、木が生い茂る以外は、
いいくる其ぬ儘、残さっとおん=殆ど、そのままの状態で手を加えない。
うん如しどぅ、沖縄人お、昔物守とおる=こうして、沖縄人は、遺跡を守っているのである。
筆:比嘉清。
註:尚泰久王時代は、護佐丸の乱、阿麻和利の乱があった。尚巴志が北山と南山を滅ぼし後も、実際は中山内部には中城の護佐丸と勝連の阿麻和利という強力な二将がいて、首里にとっては脅威だった可能性がある。尚泰久は護佐丸の娘を嫁にし、自らの娘(百斗踏揚)を阿麻和利に嫁がせた事がそのことを物語はしないか。尚泰がは最終的に阿麻和利討伐の貢献した武将大城賢勇をも滅ぼした。上の二つの乱の意味が、事実上、首里独裁を固める戦略だったのではないのだろうか。
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