屋嘉収容所跡ぬ碑(金武町)

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 戦世(いくさゆう)ぬ後(あと)お、うちなあぬあまくまんかい多(うふ)くぬ収容所(しゅうゆうじゅ)ぬ造(つく)らってぃ、いいくるぬ沖縄人(うちなあんちゅ)が籠(く)みらったるむぬやん。
 やしが、くまぬまんぐらんかいあたる収容所や、旧日本軍(ちゅうやまとぅいくさ)ぬ捕虜(いちどぅい)ぬ籠ゆる為(たみ)ぬむんなやい、他(ふか)とお変(か)わとたおたん。
 いいくる7千人(ななしんにん)なあん籠みらったるむぬやしが、後から後から捕虜ん上増(うゎあ)ち、構(かむ)い難(ぐり)さがあたらあ、3千人びけあ3千人(さんじんにん)びけんやハワイんかい連(そ)うてぃ行(い)かったん。
 うぬ捕虜ぬ中(なあか)んかい居(をぅ)たる沖縄人ぬ一人(ちゅい)が、戦世とぅ捕虜ぬ哀(あわ)りぬ様(さま)ぬ歌作(うたつく)たん。
 うりが「屋嘉節(やかぶし)」やん。
 やくとぅ、くまあ「屋嘉節」ぬ生(ん)まれたる所(とぅくる)んやん。
 あいゆかんぬ哀りぬ中、歌作ゆる肝心(ちむぐくる)ぬある沖縄人ぬん居たるむんやんでぃち、実(じゅん)に肝誇(ちむふく)いすん。
 やしが今(なま)あ、うんにいぬ面影(うむかじ)え見(み)いらん。

筆:比嘉清。

戦世ぬ後お、うちなあぬあまくまんかい多くぬ収容所ぬ=戦後は沖縄のあちこちに多くの収容所が
造らってぃ、いいくるぬ沖縄人が籠みらったるむぬやん=造られ、多くの沖縄人が収容された。
やしが、くまぬまんぐらんかいあたる収容所や=だが、この付近にあった収容所は、
旧日本軍ぬ捕虜ぬ籠ゆる為ぬむんなやい=旧日本軍の兵士を捕虜を収容するためのもので、
他とお変わとたおたん=他のそれとは異なっていた。
いいくる7千人なあん籠みらったるむぬやしが=凡そ7千人もの捕虜が収容されらのだが、
後から後から捕虜ん上増ち、構い難さがあたらあ=次から次へと捕虜が増え管理し難くなったのか
3千人びけんやハワイんかい連うてぃ行かったん=3千人程がハワイに送られた。
うぬ捕虜ぬ中んかい居たる沖縄人ぬ一人が=その捕虜の中に居た沖縄人の一人が
戦世とぅ捕虜ぬ哀りぬ様ぬ歌作たん=戦争と捕虜生活が如何に悲惨であるかを歌にした。
うりが「屋嘉節(やかぶし)」やん。やくとぅくまあ=それが「屋嘉節」である。だから此処は、
「屋嘉節」ぬ生まれたる所んやん=「屋嘉節」の発祥の地でもある。
あいゆかんぬ哀りぬ中、歌作ゆる肝心ぬある=悲惨のさ中にあっても歌を作る感性を失わなかった
沖縄人ぬん居たるむんやんでぃち、実に肝誇いすん=沖縄人が居たものだとほんとうに感心する。
やしが今あ、うんにいぬ面影え見いらん=だが、今は昔の面影は感じられない。

筆:比嘉清。

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